韓国映画の歴史
その起源から韓流ブームまで

映画の起源は1894年にトーマス・エジソンが発明したキネトスコープと言われている。これは1人の閲覧者が箱の中を覗き込んで「動く写真」を観る装置だった。続く1895年。フランスのリュミエール兄弟がシネマトグラフを開発。映写の機能を備えた機材で、複数の観衆が同時に観ることができる画期的なものだった。

「生きているように動く写真(活動写真)」に観客たちは驚愕し、たちまち世界各国に広がっていく。そして1890年代後半。韓国にも活動写真が輸入され、映画の産声が上がる。

【出典・参考文献】
株式会社キネマ旬報社「韓国映画史 開化期から開花期まで」
KDDI総研R&A「「韓流」にみる韓国のコンテンツ振興政策」


■1897年
大韓帝国設立

■1897年~98年
活動写真が渡来する

■1906年
初の常設映画館「東大門活動写真所」が完成

■1910年
日本が大韓帝国を併合。朝鮮総督府を設置

■1919年
活動写真連鎖劇の時代がはじまる
活動写真連鎖劇とは撮影された野外のシーンなどを演劇の中に組み込む表現方法

■1922年
京畿道(キョンギド)の警察局が興業および興業場取締り規則を発表。活動写真に対する統制が体系的に整備されはじめる

■1923年
100%フィルムで作られた劇映画が登場
諸説あるが劇映画第1号は1923年、朝鮮総督府逓信局が貯蓄奨励用に製作した啓蒙映画「月下の誓い」といわれている。今作には撮影・編集に日本人も参加している。
また、当時18歳でヒロインを演じたイ・ウォルファが最初の女優とされる。すでに演劇界では名声を得ていたが、女性が舞台に立つことがタブーだった当時、男性が女役を演じていた女形俳優全盛期に、出演の権利を獲得した稀有な女優である

■1924年
韓国の資本と人材のみで製作された初の純韓国作品「薔花紅蓮伝(チャンファホンニョンデン)」完成。監督はパク・ジョンヒョン

■1926年
ナ・ウンギュ監督が無声映画「アリラン」製作
韓国で最初の傑作として受け入れられ、ここから多数の無声映画が作られる

映画歴史家イ・ヨンイルは、植民地状態から出発した韓国映画は初期から民族主義を自覚し、そのような韓国映画の理念を最初に提示したのが「アリラン」だとする。民族映画とは民族の現実を直視するもの

日本政府は活動写真フィルム検閲規制という法律を制定し、朝鮮映画の検閲を体系化させた

■1935年
発声映画の登場
無声映画時代の有名な撮影監督イ・ピルが、日本の技術者と協力して独自の発声映画の製作技術を開発。韓国の伝統小説をモチーフにした初の発声映画「春香(チュニャン)伝」を製作

「春香(チュニャン)伝」以降も発生映画を上映できるシステムが不足していたことから、観客は解説者(弁士)がいる無声映画を楽しむことも多かった

この年の前後、新たな映画世代が舞台への依存性から脱却し、独自の芸術として位置づけようとする動きが出る。舞台に依存する様式を「新派」と名付け、旧時代的な様式として規定し、低級であるとした

【新派劇の特長】
新派劇の化粧法は分厚く白塗りした顔の上にあらたに顔を描くことで、全く異なる現実の話であることをあらかじめ設定している。衣装は白い服や白い靴、中折れ帽子が好まれ、悪役の場合はスリムなズボンをはいた。また台詞の抑揚や感情を過度に表現し、涙を流させるのが基本の型だった。

■1940年
朝鮮総督府が朝鮮映画令を施行。
日本の政策を支持する政治的な宣伝映画を除いては、事実上、映画製作は不可能になる。朝鮮総督府の要求に協力しない者は映画界を去り、残った者は朝鮮人を日帝戦争に動員するための軍国主義宣伝映画の製作に協力した

■1943年
「望楼の決死隊」製作
太平洋戦争がはじまり、日本政府は多くの日本の映画人を満州、台湾、朝鮮、南方などに派遣し、宣伝映画を作らせた。「望楼の決死隊」は東宝の看板スターである高田稔や原節子も出演。軍民一体のイデオロギーを盛り込んだスパイアクションで、唯一、興業的にも成功した宣伝映画となった

■1945年~50年
1945年に日本が無条件降伏し、植民地から解放されると多くの「光復映画」が製作された
光復とは奪われた主権の回復を意味し、日帝の植民地統治から解放された感激を映画で表現しようとする情熱が爆発することになる

■1950年代
メロドラマと新派の区別
メロドラマ:時代の風潮を描くメロドラマは、植民地支配から解放され、アメリカ文化が流入した影響を受けている。登場人物は旧態依然とした善悪の二項対立から抜け出しており、自己犠牲や献身という通俗的なモラルで神秘化されてもいなかった
新派:依然として舞台に依存する新派は残っており、大衆が舞台から映画に急速に移行すると共に、舞台芸術家も続々と映画界に参入。舞台で鍛えられた歌と演劇で好評を得る

朝鮮戦争と記録映画活動
1950年、同族同士が殺し合う朝鮮戦争が勃発。ソウルではなく地方で映画製作が行われるようになり、戦況に合わせた記録映画の製作が活発になった

■1953年
朝鮮戦争休戦協定が調印される
これ以降、韓国映画は安定を取り戻し、映画産業が定着する中興期を迎える

■1954年
外国映画が輸入されはじめ、30社にのぼる外国映画の輸入会社がアメリカ映画やフランス映画の輸入を競うようになる。避難地の古びた劇場で上映しても大盛況となった
映画製作の活性化を誘導した最初の映画振興政策として、国産映画に対する入場税免税措置が実施される

■1955年
イ・ギュファン監督の「春香伝」が2か月のロングラン上映の結果、観客18万人を突破。韓国映画史上初のヒットを記録する

■1950年代末
新派映画は清算すべき植民地の残骸だとして問題視される。それに代わって主流になったのは、都会の庶民の哀歓を描いた家族メロドラマと青春映画。

ソウルのすぐ北に位置する忠武路(チュンムロ)に映画人が集まり始める。製作者、監督、スタッフ、役者、スターを見たいファンたちなどで活気を呈した。映画会社も忠武路に定着しはじめ、1950年代後半には71社に達した

■1958年~59年
喜劇映画ブームが起こる。コメディの笑いと軽さは民主主義と自由主義が拡散した時代の流れにマッチしていた。これまでの時代にはなかった正直で自由な個人の声が許容されてきたことの証明とされる

■1960年
韓国映画史上初の民間審議機関である映画倫理委員会が結成される。これまでの政府主導の検閲体制が大幅に緩和された

家族ドラマが全盛期を迎える。子どもと親の世代間の葛藤などを喜劇的に演出。過去の秩序と新しい秩序が対立する交差点を鋭く描き、社会が再構築を願った新しい家父長制の姿を描く

■1961年
韓国初のカラーシネマスコープ映画が製作される

■1962年
映画法制定
事前許可制とし、映画業者の登録制、輸出入の推薦制を定める。主に反共イデオロギーを前面に打ち出した国民の思想統制の手段としても使われはじめる。
その後、改定が重ねられるが、映画を国家主義的な発展動員体制の一部に包括しようとしたという点で共通していた

■1963年
第一次改正映画法施行
企業化政策と外国映画輸入クォータ制を具体化

企業化政策:映画業者の登録の際に、登録に見合った物的条件と人材を備えた映画会社に限ることで企業型映画会社を中心に、安定した映画製作システムを築くよう、法で強制した

外国映画輸入クォータ制:業者が自由に外国映画を輸入できるのではなく、公報部から輸入クォータを受けたうえで輸入する制度。製作業と輸入業を一元化し、国産映画の製作業者だけが外国映画を輸入できるように制限した。その目的は国産映画市場を保護することにあった

だが外国映画の希少性が高まる結果となってしまい、外国映画の収益性が韓国映画を大幅に上回ってしまう結果となる

■1966年
全国単位のテレビ放送がはじまる

■1969年
テレビに対抗するため、映画の差別化戦略としてカラー映画が全体の96%を占めるようになる
原色の鮮明な画面はメロドラマに登場する女性のカラフルな服装や小道具をはじめとする様式美として視覚化されるようになる

■1960年代末
新派映画が再び韓国映画の中心になる
この頃の新派映画は次の2点について新しい
第1に様式化された演技と扮装の技術、飛躍的なストーリー構造、過度な背景音楽の使用など、1950年代から受け継いだ特性は残っていたが、映画的な時空間の中に収斂された
第2に産業化の進展に伴う階級間の葛藤と、家父長制の抑圧を全面に描いたこと

劇中の主人公と同様、貧困と剥奪感に苦しんでいた大衆に好評を博し、韓国映画の中心に浮上。メロドラマのほとんどが新派映画化しただけでなく、この時期の他のジャンルでも新派が蔓延する傾向をみせた

※63年から71年は年間100~200本以上の多様な映画が製作され、韓国映画のルネサンス期といわれる

文芸映画現象
優秀映画報償制度により外国映画クォータの割り当てを受けようとする産業面での要求から文芸映画がブームになった
優秀映画報償制度:支配イデオロギーに適する「優秀な映画」を製作した製作会社に外国映画輸入クォータを割り当てる制度

■1970年代
抑圧的な時代状況と無慈悲な検閲により映画人たちは無気力に陥り、観客は韓国映画に背を向けるようになる。この時期に韓国映画を代表するテーマとなったのは、都市の堕落した女性たちの性と肉体を悲劇的に描写した「ホステス物」だった

■1979年
20年に渡る軍事独裁パク・チョンヒ政権が崩壊。すぐに新軍部のチョン・ドゥファン政権誕生

■1980年
ベネチア国際映画祭コンペティション部門でイ・ドゥヨン監督の「避幕」がISDAP賞を受賞。韓国映画の世界進出が本格化する

■1981年
当局による検閲は続き、さらにシナリオ段階で問題を指摘する関連集団も続出する
バスの女性車掌をモチーフにした「都会に行った娘」の上映が中断される事態が発生。韓国映画史上初めて上映中の映画の看板が下ろされた

■1982年
深夜劇場が許可される。第1号作品はフランスの「エマニエル夫人」を韓国版にアレンジした「愛馬夫人」。映画館の前は大賑わいとなる
300席未満の小規模劇場の設立が自由化される。ヨーロッパをはじめとする多彩な文化圏の映画を供給し、急増した若い映画マニアを吸収した

■1988年
前年に映画法が改正され、外国の映画会社の営業を禁止した条項が修正された。
外国映画会社UIP配給による「危険な情事」が公開され、外国映画会社による配給が開始される。ハリウッドのメジャー映画会社が本格的に活動を開始

外国映画直接配給阻止闘争がはじまる。チョン・ジヨン監督を中心に不当な映画法の改悪を告発する声明書を発表。直接配給の封切館や国会などでデモを実施。当時、映画人はほぼ1カ月間、現場での作業を中止し、映画史上初めて持続的な闘争に入った

1980年代後半、社会批判的な意識を備えた新しい世代の映画が登場し、コリアン・ニューウェイブと呼ばれた

1990年代はじめ、映画産業に大企業の資本が流入し、企画映画が登場。これまでは監督の企画を製作者が許諾する構造で映画が生産されていたが、製作者の企画に投資者を引き入れた後、監督を決める方式で作品が生産させるようになる

■1995年
韓国政府は将来に向けた高度なITインフラの重要性を視野に入れ、超高速情報通信網計画(KII)を発表

■1996年
韓国政府は「情報化推進基本計画」を発表し、国内の様々な分野にかかわるITインフラの整備事業を開始

1990年代半ば、ビデオ産業が劇場の売り上げの2倍に達する規模に増加

■1997年
通貨経済危機に直面
投機的資金を中心とする欧米等の海外マネーが急速に逃げたことから、バーツ(タイ)やルピア(インドネシア)の価値が急落し、両国を中心に、東南アジアの経済圏に異変が発生。こうしたタイやインドネシアの通貨経済危機と類似の状況が韓国でも起こり、政府はIMFから緊急支援を受ける

■1998年
金大中大統領「文化大統領」宣言
コンテンツ産業振興政策を実施することを宣言。これにより、低迷した韓国経済を復興させるため、コンテンツ産業を21世紀における国家の基幹産業の1つとして育成し、同産業を国家戦略として発展させていくための法制度や支援体制作りを進めていく

■1999年
韓国政府は通貨経済危機以前のIT政策をさらに発展させた「サイバー・コリア21」を発表。
韓国を2002年までに、世界の10位以内に入る情報先進国にするという明確な目標のもと、様々な分野におけるIT化の具体的な目標数値を設定。インフラの整備はもちろんのこと、ITの活用による生産性の向上、新規産業・雇用の創出に向けた取組みを開始

シュリ」が韓国映画史上最高のヒットを記録し、韓国映画急成長のきっかけを作る
これ以降、韓国映画の興行記録は毎年更新されていく

その後「JSA」「友へ チング」「シルミド」「ブラザーフッド」がヒットし、遂に1000万人規模の観客時代に突入。人口4700万人の韓国で1000万人の観客というのは、15歳以上の人口の27%に達する規模。国民の平均映画観覧回数と習慣的な映画観覧人口をもとに推定した動員数の最高値は500万人である。よって1000万人の観客は既存の映画観覧層だけでは不可能だが、「シルミド」「ブラザーフッド」の爆発的な興業の成功は今まで劇場に足を運ばなかった40代から50代を呼び込めたことで可能となった

■2002年
「e-コリア・ビジョン2006」を発表。「サイバー・コリア21」成功を踏まえ、産業や国民生活の情報化促進、情報インフラの持続的高度化、グローバルな情報化社会実現に向けた国際協力の強化を目的とする。
こうした政府主導による政策により、韓国のITインフラ環境は急速に進歩した

■2002年~2003年
「シュリ」のようなブロックバスター作品(巨額の費用を投じて製作・プロモーションを実施する作品)は、立て続けに製作されたが、興業に惨敗する作品が多かった。韓国型ブロックバスター映画に否定的な声が出始める

代わりに2003年公開のポン・ジュノ監督の「殺人の追憶」、イ・ジェヨン監督の「スキャンダル」、キム・ジウン監督の「箪笥」、パク・チャヌク監督の「オールド・ボーイ」などは、ブロックバスター映画を標榜していなかったが、予想を超える興業成績を上げ、さらに批評の面でも肯定的な評価を得て、海外の映画祭にも招待された。そこで巨額の製作費を投じなくても成功した高品質の作品を、映画ジャーナルを中心に「ウェルメイド映画」と呼ぶようになる

・韓流ブームと韓国映画
韓流スターを中心にした韓国映画の海外市場が拡大。特に日本市場の比重が絶対的に高く、2005年には87%に達した

「連理の枝」はチェ・ジウがキャスティングされた製作発表の段階で、日本から巨額のギャラを提示された
またイ・ビョンホンとチェ・ジウの「誰にでも秘密がある」、イ・ビョンホンの「甘い人生」、チョン・ジヒョンの「僕の彼女を紹介します」は、韓国内では興業的に成功しなかったが、輸出に力を得て全体の収益では黒字を記録。韓流スターの過去の出演作も、DVDで海外に続々と販売される

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